学びとは何か 今井むつみ

学びとは何か ー探究人になるためにー 今井むつみ 岩波新書1596 の要約

人はどのように自分の経験や人から伝えられたこと、教えられたことを理解し、記憶するのか?。記憶はどのような形で心の中に蓄えられ、どのように思い出されるのか。どのように思考し、問題を解決し、学習するのか。

頁1。

誰もが「自分で学ぶ力」をもっている。

子どもの母国語の学習がそれを教えてくれる。子どもは耳に入ってくることばの意味を自分で推測し、ことばを繋いで文を組み立てる規則を自分で見つけ出す。

それはまさに「自分で問題を発見し、考え、解決策を自分で見つける」という「学習力」そのものである。頁Ⅰ

子どもは母国語を学習するとき驚くほど素晴らしい学習力を発揮するが、すべのことを同じように苦労なく学べるわけではない。外国語の学習や算数の学習につまずく子どもは、どのようなときに、なぜ、つまづくのか、それを知ることも「学び」を考える時にとても大事なことだ。頁2

学びのしくみを理解するためには「知識とは何か」という問題を避けて通ることができない。覚えても使えない知識と新しいことを生み出すことができる知識は何が違うのだろう。頁Ⅱ

「よい学び」を実現するためには、まず一人ひとりが自分は何を目的にして学びたいのかを考え、その目的のために最もよい方法は何かを考え、それを実践しつづける「学びの探求者」であってほしい。

本書はそのときに役立つ材料として、人の記憶や思考の仕方、心と脳の中での知識のあり方、新しい知識の獲得の仕方などについて「よい学び」を考えていくヒントを提供する。頁Ⅴ

記憶力世界一の競技で行っている人、つまりそれから得られるヒントは、

記憶力がすぐれている人とは、記憶すべき情報を後で取り出しやすいような形に変換することが上手な人といってもよいだろう。頁6

記憶の達人たちは、様々な工夫をする。短気の記憶貯蔵庫に一時に入れられる情報は大体七項目くらいと言われる。つまり、無意味な数字なら七桁、短い単語なら七個くらいだ。

達人は、もともと関係ない情報・言葉をうまく関連付け、ひとつの大きな塊にして塊のまま覚える。つまり、情報を圧縮して何倍もの量の情報をうまく長期の記憶貯蔵庫に移送できるようにする。

長期の記憶貯蔵庫に転送して、あとで忘れずに思い出せるように、常日頃からたゆまぬ訓練・再読をしている。

「受験時代、世界史の山川の教科書の欄外に、その頁での関係する一蓮のキーワードをまとめて記入し、本文を読んではそのキーワードを暗記する方法がサプノートをつくるよりも効果的だった。本文が横にあるのがよかった。キーワードのまとまりを単に暗記するのではなく、本文が連想されることでキーワードを暗記できた。個別に記憶するのではなく、まとまりとして暗記できた。サブノート作成は時間の無駄のようだ。」

記憶力とは何か「よく覚えられる」というときは「記憶に入れるプロセス」と「記憶を取り出すプロセス」の二つの異なるプロセスが関わっている。

「思い出す」ためには、記憶の貯蔵庫に入れ、保持しておかなければならないが、その情報が必要な時に、いつも取り出せるとは限らない。あとで取り出させてこそ、情報は薬に立つのである。

プロ棋士が実験でみせた驚異の記憶力とは、棋譜の膨大なデータベースから目の前の局面を一瞬にして見つけることができる能力である。

「瞬間的記憶力」をつかうと「瞬間的記憶貯蔵庫」にはいるが、人間の場合一秒程度しかもたない。

「瞬間記憶貯蔵庫」に入れられた情報はさらに「短気の記憶貯蔵庫」に入る。しかし、ここでも多くの情報を全部一度に保持しておくことができない。時間がたってから思い出そうと思ったら、情報は「長期の記憶貯蔵庫」にうつさなければならない。

「覚えよう」とする時、繰り返し復唱するなど努力をして「瞬間的記憶貯蔵庫」から「短気の記憶貯蔵庫」さらに「長期の記憶貯蔵庫」に移そうとするが、新しい情報がどんどん入ってくると記憶が追いつかなくなる。そうこうするうちに「短期の記憶貯蔵庫」があふれてしまい、情報が流れさってしまう。

私たちは日常で起こっている何かを理解するために常に「行間を補っている」。実際には直接言われていないことの意味を自分で補いながら文章、映像など様々な事象を理解している。

「行間を補うために常識的は知識」を心理学では「スキーマ」と呼んでいる。

子どもは様々なことを学校で学ぶ。しかし、先生の説明や教科書を理解するには様々なスキーマを使って行間を補うことが必要だ。よく理解できないことは記憶も難しい。

(たとえば難しい漢方処方名や漢方用語・生薬名を読めないとその意味を記憶することは難しい。)

結局、「行間を補うために常識的は知識」である「スキーマ」が無くて理解できないと、記憶することも難しくなる。スキーマで行間を補うことができないと、先生の説明も、テキストに書いてあることも理解できない。無理やり覚えようとすると、無意味な数字列や単語リストを記憶するのと同じような非効率な状況になり、しかも記憶に残りづらくなる。

人は、何か新しいことを学ぼうとするときには必ず、すでに持っている知識を使う。その知識「行間を補うための常識的は知識(スキーマ)」が使えない状況では理解が難しく、したがって記憶もできない。つまり学習ができないという事態に陥ってしまう。

すでに持ている知識が新しいことの記憶に大きな役割を果たしているのである。

スキーマは外界にある膨大は情報から必要な情報にのみ注意を向けさせる。人は注意を向けて選択した情報だけを記憶する。

「スキーマは知識である」

スキーマによって状況を判断し、どこに注意を向けたらよいのかわかる。

スキーマによって本来は記憶できない量の情報を圧縮して記憶することができる。スキーマがなければ取捨選択できず理解できず記憶も困難になる。

「頭で知っているだけの知識」は「使えない知識」であり母国語の習得のような「体で覚えた知識」は「使える知識」と云うことができる。

つまり「よりよい学びとは何か」ということを考えることが重要だ。

 子どもは耳にする単語を「聞き流す」のではなく、分析して語彙に潜むパターンを発見し、ことばの学習についてスキーマを作る。「行間を補うために常識的は知識」であるスキーマは、常識となる理解の前提となる知識である。そのスキーマによって学習は加速する。推測することで語彙を増やしていくための「学び方の学び」を学習することで体で覚える知識となる。

「漢方の学習でも、漢方の常識ともいえる知識(スキーマ:常識)の欠如が学習を阻害しているといわれている。そのためには先人の書いた多くの漢方に関する書物に目を通すことが必要だが、その際にすべて覚える必要はなく記憶に残るエピソードを得ることでよい」

単語単体(漢方処方)の意味を学ぶだけでは不充分である。単語(処方)同士の関係を学び、関係性をもとにしたシステムをつくっていく必要がある。

その中で似ている単語(処方)同士がどう違っていて、その二つの単語の境界がどこに引けるか、(処方の)違いはどこかを知ることは特に大事である。頁52

人は理解できない情報を生のまま記憶に取り込むことは非常に苦手だ。

熟達者の卓越したパフォーマンスや思考を支える認知能力は、ただちに本質を見抜く力、臨機応変な応用力、普通の人には見えないものを見分ける識別力、究極の姿を思い浮かべる審美眼、このすぐれた判断や行動を可能にしている心の中の判断基準を認知科学では「心的表象」という。この心的表象をより洗練されたものに育てていくことが熟達の過程である。

豊かで洗練された「心的表象」をどのように育てることができるのかをとりあげるのが本書の目的である。

脳の構造も変化する。

プロ音楽家と音楽初心者の違いは音楽の情報を処理する大脳皮質部分の体積が、プロの音楽家は非音楽家に比べて30%ほど大きかった。アマチュア音楽家の体積はプロと非音楽家の中間くらいだった。

プロの音楽家は、大脳の感覚運動野、補足運動野、小脳などの運動学習やスキル学習に重要な役割を担う部分が非音楽家とくらべて大きくなっていた。

熟達による脳の構造の変化は、特定の楽器の演奏に特化して起こることもある。バオリンやチェロの弦楽器の演奏では左手の指を細かく動かす。弦楽器のプロの奏者の脳の大きさは感覚野の中の左手が占める部分の脳の体積がアマチュアや非音楽家と比べ増大していた。しかし、右手に対応する部分では、このような増大は見られなかった。頁132

「ミラーニューロン」とよばれる脳細胞は他者の行動を観察するとき、頭もその行動を模倣し、自分の心の中でそれをなぞり自分の行為として置き換えることを脳の中でおこなっているらしいのである。

しかし自分が実際に体を動かして習得しなければ、何万回観察していても、熟達者と同じような脳の働き方をするようにならない。

人は他者を観察して、他者から多くを学ぶ。しかし、その時、他者の行為を分析し、解釈し、心の中でその動きをなぞり、それを実際に自分の体を使って繰り返すことが、人を模倣して学ぶときには、なくてはならないことなのである。

これは運動にかぎらない。言語や学業の習得も同じだ。

結局のところ、模倣から始めてそれを自分で解釈し、自分で使うことによって自分の体に落とし込むということは言語や運動に限らず、すべての学習、熟達過程について必要なことである。

教えられたばかりの時には丸暗記しただけで実際の問題になかなかつかえないものだが、何度も経験し回答を解く練習を重ねると、問題や症例を見た瞬間にどのような解法や処方をもちいるかが分かるようになる。・・そのためにはどうする?

症例や例題を最初は「事実として記憶された」ものが何度かつかわれるうちに「手続きが埋め込まれた知識」、つまり「体の一部として使える知識」になるのである。この、頁136の内容は、きわめて常識的な指摘である。

将棋の上位者が時間の無い時に瞬間的な次の一手を考える直感は、多くの手でなく3手くらいが思い浮かぶという。瞬間的な判断・直感は大脳基底核の一部の尾状核という部位だと分かった。

尾状核は、繰り返される経験から無意識に行われる学習や習慣的な行動の記憶にとくに深く関わる部分だと考えられている。つまり直感は「思考の座」といわれる前頭葉などの「新しい脳」ではなく「古い脳」が働く。

このことは学習と熟達の過程を考えるうえで非常に重要だ。長年の習慣的な経験の繰り返しから直感が生まれることを意味するからだ。

「いきた知識とは何か」は、学習・熟達に伴い脳の変化が教えてくれたが、それは、「使うことができる知識」は、事実の断片的な記憶の集積ではなく、「知識をいかに使うかという手続き」そのものの記憶と切り離せない形で脳内に存在するということだ。頁140

数学や物理の公式を口で言うことはできても問題を解くためにすぐに使えるわけではない。私たちが実際に使うことができる『生きた知識」は、単に事実を知っているという知識ではなく、それを「どう使うかという手続き」までも一緒になった知識なのだ。

その知識は、脳が学習し、知識をつかうための神経ネットワークを構築することによってつくられている。

知識観、つまり「知識についての認識」を「エピステモロジー(知識観)」という。

言語について考えると、言語はあまたの要素が互いに意味をもって関係づけられてつくられたシステムである。単語を覚えるということは、それまでの語彙にさらに新しい単語を加えることではないのだ。

こどもはその単語の意味を自分で考える。そのときには、すでに知っている単語との関係を考え、語彙のシステムのなかでの新しい単語の収まる場所を考える。

新しい単語が語彙のシステムに入れられたら、その単語と関係する単語の意味も変わりうるし、単語のシステム自体も変動する。

どのような分野の知識にも言えることである。「生きた知識」とは、知識の断片的な要素がべたべた塗り重ねられて膨張していくものではない。常にダイナミックに変動していくシステムなのである。この知識のシステムは要素が加わることによって絶え間なく編み直され、変化していく『生き物」のような存在なのだ。

「生きた知識」は目の前の問題を解決するのに使うことができるだけではない。新たな知識を創造するために使うことができる。

人は想像力と、いま持っている知識とを組み合わせることによって無限に新しい知識をつくっていくことができる。単に覚えただけの知識は使うことができない。

将棋の棋士が棋譜を覚えるのは、「丸暗記」とはまったく違う。暗記するのではなく一手一手についてその意味をとことん考え、精査する。心血を注ぎ、時間をかけ、一手一手の意味とその流れについて自分で納得が行くまで何度も繰り返し並べていく。その結果、棋譜が自然と頭に叩き込まれるのだ。

幕末の長岡藩の家老の家に生まれた杉本鉞子えつこ という人が、当時の武家の日常の生活を随筆に記した。鉞子は、後にアメリカにわたり、英語で「武士の娘」という随筆を書いたがそれは各国で翻訳され世界中で読まれた。

六才の鉞子は、お寺の住職から、大学、中庸、論語、孟子を学んだ。彼女の師匠は「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります」とか「百読おのずから其の意を解す」などと答える。鉞子は理解出来ないことを受け入れながらも、勉強することを愛し、勉強をつづけた。

「武家の娘」大岩美代訳 ちくま文庫より・・

「何のわけも判らない言語の中に、音楽をみるような韻律があり、易易と頁を進めてゆき、ついには、四書の大切な句をあれこれと暗唱したものでした。・・この年になるまでには、あの偉大な哲学者の思想は、あけぼのの空が白むにも似て、次第にその意味がのみこめるようになりました。時折、よく憶えている句がふと心に浮かび、雲間をもれた日光の閃きに似て、その意味がうなずけることもございました。」

鉞子も心から理解したいとわからないながらも、その意味を問いながら何度も読み続けた結果、自分の体の一部になり、師匠のいったとおり、自ずから言葉が解きほぐれていったのである。

母国語の習得では、子どもは知識が最初から断片的な要素の集まりではなく、システムであることを見抜いていて、システム構築にむけてすぐに動き出していることを示している。

システムをつくるためには、システムの外枠ができていることが大事だ。

それができれば新しい要素は最初からシステムの中に存在している要素と関係づけられながら学習されることになる。

このように互いに関係づけられていない断片知識がどんどん増えるのではなく、要素が互いに関係づけられる形で、知識のシステムとして成長していくのである。

「知識についての認識」は、思考力、学習力と深い関係がある。

知識を常に再編成を繰り返すダイナミックなシステムとしてとらえる知識観「エピステモロジー」とでは、目指す思考のありかたも、理想とする学びのあり方もまったく異なる。

「知識についての認識」は、「絶対主義」から「相対主義」から「評価主義」という三つの認識についての発達段階をたどるとしている。

知識は常に変化をつづけている流動的なものだし、最終的な姿は誰にもわからない。最終的な姿(解答)はわからないのにシステムを構築するためには、要素を増やしつつ、それに伴ってシステムを変化させながら成長させていくしかない。

「生きた知識のシステム」を構築し、さらに新しい知識を創造していくためには、直感と批判的思考による熟慮との両方を両輪として働かせていく必要がある。

一流になるための練習は、練習時間と達成度の関係を調べ、練習の質について調査を行った。

アマチュアレベルの音楽家は楽しみのために練習する。それに対して、達成度の高い熟達者たちは、練習を楽しみではなく、向上のために行っている。

誰もがホ本番では集中して必死になるが、しかし練習でどれだけ必死になれるだろうか。達成度の高い者は練習中の集中度の違いにある。高い集中度を保つために、メリハリをつける。

集中力が落ちてくると休み、集中力が低下したまま、むやみに練習をつづけることはしない。一流の熟達者は極度に集中し、考え抜いた練習・学習を、後に支障がないように持続できる最大の時間、練習・学習を行っている。

(プロ棋士の羽生善治さんは、集中するために「ぼんやりする時間」を極力つくると著書に書いている。)

本当に必要な集中力というのは、時間制限の中で集中力の緩急をつけて、困難な問題を途中で投げ出さずにやり抜くために、集中力をコントロールすることができることだ。

この力を身に付けるためには、最小限の努力で効率よく知識を憶えることではなく、自分が最も大事だと思うことを長期に渡ってやりぬく訓練を小さい頃から習慣づけて継続していくことしかないのではないだろうか。

集中力の訓練

プロ棋士の羽生善治さんは、集中するために「ぼんやりする時間」を極力つくると著書に書いている。

運動選手がウオームアップするように、簡単な詰将棋と難しい問題を織り交ぜながら集中力をたかめていくそうである。

羽生善治さんは、10代のころ、江戸時代につくられた非常に難しい詰将棋の問題に取り組み、一問解くのに何ヶ月もかかる。考えても考えても答えが出せず、あきらめる。別の日に考えはじめ、またあきらめる。それを繰り返していうるにち、ある日ふと光が見え、一気に答えに至る。この訓練が集中力のコントロールに非常に役立ったそうだ。

一時の数時間の集中力だけが大事なのではない。プロ棋士の島朗さんは著書の中で、最善手や他の棋士が指した手の真意を見つけたいなどの大きなテーマに取り組むときには、何週間、何ヶ月がかりで「わからない状態」を抱え、熟成させなけばならない、と著書に書いている。

一流の達人になるための資質は、本当に考えに値する困難な問題を何ヶ月も、何年もあきらめず追い続けられる忍耐力だ。上達のために考え抜いた練習を毎日長時間行っている。集中力を保つための工夫も色々考えているのだ。

才能とは何か

超一流の達人は、質の高い練習を長時間にわたって毎日欠かさない。

達人たちは、自分の分野で必要なことに関しては驚くべき記憶力をもつ。「天才」や「抜きん出た達人」が、たゆまぬ努力をつづけていることは紛れもない事実である。

棋士の羽生善治さんは、子どもの時から、常に己を律してストイックに努力を重ねてきたこと、独自の勉強法を模索しつづけてきた。

超一流の人は、超一流のパフォーマンスをするために、小さい頃から質の高いトレーニング方法を模索しつづけ、実践している。また、実践しながら集中力の緩急の付け方、時間の配分のしかたも同時に学んでいる。

天才とよばれた人たちは、その分野で小さいときから極度なモチベーションを示している。羽生善治さんは、才能について問われると「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが何より大事な才能だと思います」と答えている。

何かが好きで始めてみて夢中になり、練習すればするほど向上することがわかり、さらに練習するようになる。練習に工夫を重ねること自体が喜びになり、生活の一部になる。このようなサイクルがあると、そのような性格を「才能」と呼ぶこともできる。

天才の遺伝子?

文字をすぐに音に変換することができず、素早く読むことができない人たちを「ディスクレシア」(難読症患者)という。代々ディスクレシアのフィンランドの家族にROBOIという遺伝的な変異が関わっているという研究報告がある。

この遺伝子は発達過程で、左脳と右脳の間に神経接続を形成するのに重要な役割を果たすと考えられている。通常、スムーズに読むのに効率のよい左半球に神経回路が発達するが、ディスクレシアは効率のよくない右半球にその回路をつくらなければならなくなり、そのためスムーズに読めないと考える研究者もいる。

ディスクレシアの人は、文字を書くときも鏡文字を頻繁に書くことが知られている。

興味深いことに、ディスクレシアの人の中には、「読み」以外の部分では特異な能力を持つことが多い。とくに、普通の人にはできない脳の右半球の得意な空間の捉え方や複雑なパターンを見分ける能力に長けていると言われている。

歴史上「天才」と呼ばれたトーマス・エジソン、レオナルドダビンチ、アインシュタイン、サグラダファミリアを設計した鬼才アントニ・ガウディもディスクレシアだったと考えられている。

(エジソンは学校では先生に質問攻めにして学業はふるわず退学させられ一人で貨車の中で色々な実験して火事を起こし、アインシュタインは試験で川の名前を思い出せずに落第したことを話していた。)

ダビンチのノートは、すべてが鏡文字で書かれている。

(テレビでのダビンチの特集では、他人に研究成果の秘密を読まれないように鏡文字を使ったと説明されていたが、ディスクレシアだったのかもしれない。寝る前にその日の記録・実験を鏡文字で記して毎晩振り返って記憶したようだ)

しかし、ディスクレシアの原因になっている遺伝子が天才の条件であるということではもちろんない。ディスクレシアの人がすべてダビンチやエジソンなどのように「天才」とよばれるようになったわけではないからだ。

あらゆる能力は多くの遺伝子と環境要因、成熟要因が複雑に絡み合うところに出現するのである。

認知の特性でさえ、些細な特徴が環境に作用することで生まれる。

少し目立つようになったその特徴に、まわりの大人が反応してそれをさらに助長する、ということの繰り返しによって、雪玉がころがって大きくなるように長い時間をかけてつくりあげていくものなのだ。

よい環境があれば普通は「欠陥」とみなされてしまう認知の特徴を生かし、人にはできない能力を発揮する可能性は誰にでもあるということだ。

創造性は特別な才能を持った人が特別な分野で示す特別な能力ではなく、

状況に合わせて自分独自のスタイルで問題を解決できる能力に他ならない。

熟達者の最大の特徴は臨機応変であることだが、創造性は臨機応変であることの延長線上にある。

熟達者には、あることが素早く正確に安定してできるレベルで留まるタイプと、それを打ち破り、常に新たな境地を求めるタイプがいる。

その分野で超一流と目されている人たちはマンネリになることがもっとも我慢できないことであり、常にブレークスルーを目指している。

自分の時代に存在する最高の技術や知識を体に叩き込んだ上で自分の現状に課題を見つけ、自分なりのしかたで現状を乗り越え、向上を目指した結果として創造的と人が認めるようになる。

葛飾北斎が死に際に残した言葉は、「もう10年、いや5年の命を与えてくれたら、まことの絵師になれただろうに」だったそうである。

北斎は70歳を過ぎて「富嶽三十六景」を完成させたときのあとがきを以下のように書き残している。

「七〇歳以前に書いたものはまったく取るにたらないもの

七三歳で鳥やけもの、魚の骨格の何たるかをいくらかは悟ることができた

このまま修行をつづけていれば百歳で神妙の域に達することができるだろう

百十歳までつづけられれば、一点一画が生きているもののように描けるようになる」

真に創造的な人たちは向上することへの挑戦を止めない人たちである。

熟達するにつれて、知識は大きなシステムとなり、安定し、色々と考えずに自動的に頭・体が動くようになる。それはものごとを正確にぶれなく行うために大事なことだ。しかし、一方でそれは慣れとなり創造性の足を引っ張る。

一流の熟達者が創造的であるのは、彼らが「思い込み」にはまらないように、常に意識的に思い込みを破ろうとしているからだ。

「知識についての認識」を「エピステモロジー」という。

どのような分野でも一流の達人は、向上するための手立てを常に模索し、

実践する探究人だ。

探究人になるためには、知識は自分で発見するもの。使うことで身体の一部にするもの。システムの一部であること。そして知識のシステムとともにどんどん変化していくもの。探究人を育てるということは、「知識についての認識」をいかに育てるかというところから始まる。

「知識についての認識」は、頭でなく体の一部として理解するために、幼児期から様々な現象に対して「なぜ?」と問い、自分から答えを求めていく姿勢が大切である。

これは「知識は教えてもらうものではなく、自分で発見するもの」という認識につながる。

子どもが探究人であるためには、親も探究人として「知識についての真の認識」をもち、探究人になることが欠かせない。小さい子どもほど親や教師の価値観に敏感である。親が探究する「知識についての認識」をもつようになると子どもも「知識についての認識」をもつようになる可能性は非常に高い。

効率を求める危うさ

探究を自ら経験し、その楽しさを味わい、それが習慣となること。

それが探究心をもった「知識についての認識」を得るためには絶対に必要である。

外国語を学ぶときに「教えてもらわなければわからない」と思っていることを、子どもはすべて自分で発見し自分の体の一部としている。子どもは生まれながらにして自分で知識を発見するようにできている。

ことばがわかるようになると、ことばで「教える」「教えられる」ことができるようになる。しかし、ことばを使って教えられるとき、その字面だけを理解してわかったきになってしまう。ことばでおしえられ、それを「覚える」と、ほんとうは理解していないのに「覚えたからわかった」と思ってしまう。

教わるのは効率的なので、それが規範となってしまい「覚える」ことが知識をうることだ、たくさん覚えることが最も良いことだと思ってしまう。

親はできるだけ沢山の知識を効率よく得ることが子どもにとってよいことだと考える。すると子どもがじっくりと好きなように遊んだり考えたりするよりも、ことばで記述された、沢山の「知識の断片」を覚えることのほうが大事だとおもってしまう。

かくして子どもは小さいころから「教えて貰うことを覚える」のに慣れ、生来実践していた「自ら発見する」ことをしなくなってしまうのである。

ことばを学ぶことがいけないのではない。しかし、小さい子どもはことばを暗記するのではなく、ことばが示す概念を自分で推論して学ぶ。

暗記がすべて悪いと言いたいわけではない。その意味を深く理解しようとせず、とにかく暗記すればその概念を知ったことになるというのでは単なる知識にとどまって役にたたない知識になってしまう。

子どもは親や教師の背中を見て育つ。子どもは探究すべきだが、自分は学校を卒業したから関係ない。あるいは子どもを探究人にするのは学校に任せておけばよいとう気持ちをもっていたら子どもは探究人には育たない。

探究の芽を育むのは日々の生活である。とくに遊びは探究の宝庫である。

そのひとつは、自分で発見すること、自分で何かを創りだすことに喜びを見いだすことだ。

しかし、それと同じくらい大事なことは、粘り強さを育てることである。

「粘り強さ」とは、長くつづけられる「根気」と失敗してもあきらめない「打たれ強さ」である。

超一流の熟達者になるための条件で最も大事なことは、集中した訓練をずっと何年も毎日つづけられることだ。創造性は訓練の積み重ねの先に生まれる。

子どもはもともと発見、創造を得意としている。しかし、飽きっぽい。

こどものうちに鍛えなければならないのは創造性よりも、難しいことをあきらめず、同じことを繰り返すことに飽き足りせず、粘り強くつづける力なのである。その「粘り強さ」を育むのが遊びだ。

ごっこ遊びとことばの発達

遊びは人をリフレッシュさせる。運動をともなう遊びは運動能力を発達させる。しかし、それ以上に、子どもの時の遊びは知性の発達に非常に重要である。

知性の発達の根幹は、象徴する能力である。普通は「象徴」は、芽に見えない抽象的な概念をある具体物に代表させる機能という意味で使われる。

しかし、本来「象徴」というのは逆の方向、つまり具体から情報のエッセンスだけを取り出して抽象化したものである。

私たちが目にしている膨大な情報を必要最小限のエッセンスに圧縮し、抽象化したものが象徴である。

言語は究極の象徴だ。つまり言語は、世界を多様な、しかし一貫した基準で切り取りまとめ、象徴化して、さらに個々の象徴を関連づけてシステムを作っている。

子どもは「ごっこ遊び」をする中で、モノの特徴に惑わされずものを象徴的に扱う能力を発達させていく。たとえばコップがないのに何かをみたててコップで飲むまねをしている。

子どもは遊びを通じて、ことばを学ぶために必要な世界の様々な様相を切り取り象徴化することを試している。

実際、ごっこ遊びと言語の発達は連動して起こっている。

遊びの五原則

1、遊びは楽しくなければならない。

2.遊びそれ自体が目的であるべき。学びの目的が例えば文字を学ぶなどのためであってはならない。

3.遊ぶ人の自発的な選択でなければならない。

4.遊びは現実から離れたもので、演技のようなものである。こどもが「ふり」をしていたらそれは遊びである。

遊び感覚で、なになにを学ぶのは本当の遊びかどうか考えるべきである。

親が「遊び」と考えていても、子どもが「させられている」とか「これはお勉強」と思い、受動的に指示されていると感じていたら、それは「遊び」ではなくなってしまう。

遊び道具と遊び方

象徴能力を育むためには、創造性につながる「象徴」というモノの特徴にとらわれずに、違う役割を与えたり、違う見方ができることだ。

ある機能に限定された道具やおもちゃを子どもに与えつづけていると子どもが本来持つ、ものごとを象徴化する能力を損ねてしまう危険性がある。

おもちゃを選ぶときは子どもがそのおもちゃを使う中でどのくらいいろいろ試し、象徴化する創造の羽をはばたたかせられるかを考えてほしい。

音や動きの刺激が次々と繰り出され、子どもに考える余地を与えないおもちゃや、想像力をかき立てることがあまりないものは創造性を育むことにはつながらない。

よい絵本も同じだ。子どもは毎日違う絵本を読んでもらうことよりも、好きな絵本を繰り返し読んでもらうことを好む。同じお話を何度も聞くことはとても大事だ。毎回ちょっとずつ違う気持ちで同じお話を聞き、すこしずつ違う発見をする。

超一流の達人は自分が極めようとすることを常に新しい視点で新しい工夫をしながら続けることができる人である。その萌芽が、ここで生まれるのである。

結果に対する報酬はマイナスにはたらく

子どもは叱るよりほめることが大事だ。しかし褒めれば何でもよいというわけではない。何に対して褒めるのかが大事だ。

子どもの算数の取り組み方が向上するのに、どのような褒め方をしたらよいのか調べた研究がある。コンピュータゲーム形式で算数の問題に取り組んだ。

子どもを二つのグループに分け、一方のグループの子どもは正解をするとほめられ、他方のグループは学ぶ態度をほめられた。

態度をほめられたグループでは算数の理解度が向上した。しかし、もっと重要なことは算数に対する態度が変わり、正解を褒められたグループよりも、難しい問題に取り組む時間が長くなったのである。

正解に対してお金やモノで報酬を与えつづけると、逆効果となる研究がある。

結果に対する物質的な報酬は創造的な思考にも悪影響を及ぼすことが別の研究でも示されている。報酬のために何かをさせると、子どもは自発的な興味を失い、報酬を得るためにその課題をするようになる。すると自分なりの工夫をしなくなり、報酬がもらえるように手っ取り早い方法でいい加減に結果を出そうとしてしまうのだ。

自由放任では探究人は育たない

すべてを子どもに任せてほっておくのがよいと誤解されやすい。しかし、それは違う。幼児にブロックや粘土など特定の機能や目的のない玩具をそのまま渡すだけでは、何をしたらよいのか判らず投げ出してします。

遊びを通じて子どもは様々なことを学ぶ。象徴能力を育むこと、他者との関わり方、つまりコミュニケーションの取り方を学ぶこともできる。しかし子どもは最初から他の子どもと仲良く一緒に遊べるわけではない。子どもが最初に他者との関わりかたを学べるのは、親子の遊びからである。

子どもが遊びから何かを学べるかどうかは親の技量にかかっている。

親が主導権を握ってしまい「教える」つもりになってしまうと、それは子どもにとって遊びではなくなってしまう。

他方、すべてを子どもに任せてしまうと子どもは新しいモノ、目先の目を引くモノに次々と引きつけられて、じっくりと遊びに取り組むことをしないことが多い。

親はおもちゃや絵本などの遊び道具の選択、遊びの環境づくり、そして何より、子どもとの関わり方を考える必要がある。

子どもが最も楽しみ、想像をはたらかせ、探究できる遊びや絵本を選べるかは、親のセンスにかかっている。細部を決めすぎず、子どもに任せながらも大事な枠組みは親が決めることが大事なのだ。

そのために、親は子どもの理解のしかたや楽しみ方を考え、子どもの個性と発達の段階に適した、一緒にできる遊びを考える探究人でありたい。

知識の深さと広さを得るために

幼児期の学びと児童期以降の学びで大きく違うところは、学校で学ばなければならない知識が格段に増えることだ。できるだけ大量の知識を「教えよう」「教わろう」という知識についての認識」を、教える側、教わる側の双方が持っていると、知識の断片「事実」を、とにかく「覚える」ことに行き着いてしまう。

そこで児童期以降の学びでは、時間の使い方がカギになる。

それには子ども自身が自分で学ぶ力を身に付けるしかない。

ずっと学びつづける探究人を育てるために何をすべきか、まず第一に、学校は「知識を教える場」ではなく、知識を使う練習をし、探究するための場となるべきだ。

知識を使う練習とは、持っている知識を様々な分野でどんどん使い、それによって新しい知識を自分で発見し、得ていくということだ。それがアクティブラーニングの本質である。

誤った「常識となっている知識」の修正

子どもの知識の発達と教育に関して、子どもが大人や少し年長の仲間の力を借りて、いまより少し発達のレベルの高いところに上っていく。

それを助けるのは大人の大事な務めだ。

子どもを上から引っ張り上げるのではなく、自分でよじ登っていけるように、環境をつくり、下から少しだけ支える。レベルの設定が現状より高すぎても、低すぎてのうまくいかない。

現状での子どもの知識を見極め、自分で上がっていけるちょうどよいレベルを設定する。子どもの間違いを頭から否定せず、辛抱する。子ども自身が「誤っている常識としての知識」がおかしいと気づく状況を設定する。

それが教師や親の役割ではないだろうか。子どもが自分で修正することができたなら、その喜びと感動は学びへの意欲につながり、「教えられたことをただ学ぶだけ」からの脱却につながる。

子どもの発達の段階、知識の段階に合わせて、子どもが自分で発見し、自分で進化できるような状況を設定する。これは座学では学べない。親も教師も教えることの熟達者でなければならない。そのためには、自分自身が学びつづける探究人になるしか方法はない。

人と一緒に、人を頼らず

大事なことは、一人で考えることをおろそかにしないことだ。超一流の熟達者ほど一人での練習に時間をかけるという研究を発表している。

授業で机の前に座って受動的に授業を聴き、覚えることではなく、自分で工夫しながら自分ひとりで学ぶ習慣と学び方を、子ども時代に身に付けていかなければならない。

探究人を育てるには自分が探究人になるしかない。

これは親にも、教師にも、子どもに関わるすべての人に言えることである。

日本ラクビーに奇跡をもたらしたといわれる、ラクビー監督エディ・ジョーンズさんのインタビュー記事に探究人を育てるための真髄が記されている。

「私たち人間は、楽な方に進みがちです。変化することは、いつだって難しいもの。だから、日々の生き方、考え方から変えていけたらと思っています。ほんの3~5%の小さな意識の変化、それが、大きな違いを生むのです。」

選手を極限まで追い込み変えようとしたことは、選手が「自分で考える」意識をつくることだった。

これはそのまま学校教育の目標になる。

超一流の達人に共通したことは自分の学びを自分で工夫していることだ。

自分の現状を的確に分析し、弱いところ、克服すべき課題が自分でわかり、自分で、そのための学びを工夫できる。

そのような自律的な学び上手になることが、学校教育の目標とするべきだ。それを支援できるように指導者は自分の学びを深めていかなければならない。

あとがき

知識は断片的な事実の寄せ集めではなくシステムである。子どもは語彙という巨大な知識のシステムを、そのしくみを発見しながら自分の力で創り上げていく。

知識は常にダイナミックに変化し、生き物のように成長し、今ある知識が新しい知識を創造していく、母国語を習得するときには誰もがこのような「生きた知識の学び」をしている。この知識構築・創造の姿こそ「主体的な学び」の本来の姿であるはずだ。